・歴史小説を読んでたら、久々に無双がやりたくなったので、
三国無双を10年ぶりに購入しました。
全くゲーム性が変化してなくて笑ってしまいました。
ダクソなどのアクション性の高めなゲームを好む自分からすると単なる
作業ゲー…。歴史好きか、
乙女ゲーもしくは
ギャルゲー好きでないと楽しめないようになってしまい、質の低い古びたゲームで終わってしまいそうな事が残念です。
・あわせて、コーエーの描写に不満があります。
ここで、自分の三国志への拘りを書いておきます。人によって好きな国や人物も異なると思うので…。
私は三国志では
周瑜が好きです。劉備や孔明、関羽は美化されてて子供心に苦手でした。8才くらいで既に嘘臭いと感じてました(笑)。曹操や司馬懿の方が
中原を抑えたりと必要な時に的確な手をうてて後継者も育てている様に感じ、個人的には蜀よりはやや
呉や
魏よりです。元々
儒教的な歴史観があまり好みでなかったせいか、
始皇帝や
項羽や商鞅も韓非子も孫子二代も好きな方です。(法治主義が性悪説から発展したものなら広義の儒教かもしれないので、徳治第一主義が苦手とか、表現すべきなのかもです。別に悪逆非道な専制を好むわけでないです。)暗に武帝への不満を滲ませる司馬遷も好きです。天道是非、よって
蜀漢正統説は否定的です。
ちょっと偉そうに私が「
中原」と称した地理について語ると、定義的には黄河下流域あたりを言うそうですが、ここでは咸陽・長安・洛陽あたりも含むとします。
なんで黄河がこんなに重要拠点と思うかというと、文化的背景や漢帝国の要所でもありましたが経済流通の大部分をしめているからです。
つまり、曹操や司馬懿の方がずっとお金持ちだったと考えられそうです。(三国時代は長引く官吏の腐敗や戦乱によって中原自体も衰えてはいたそうです。)長江流域は中華の中でも肥沃な穀倉地だそうですから呉の得た地理はまだ意味がありますが、蜀というのは見た目の面積では三国並び立っていそうに見えますが、実際の規模は面積ほどの価値はなく、二強状態に小さな蜀がくっついていってるだけように私には見えました。小学生がそう思ったのだから、きっと当時の人もそう思っていたのだと思います。
こういうと少し酷いかもしれませんが、(春秋)戦国時代の韓程度のバランサーでしかなかったように感じます。つまり孔明が目指したのは、天下統一して平和な世をつくることではなく、必要以上に戦乱の世を長引かせて、民を疲弊させる事だったのでは、と私には感じられたのです。
↓に春秋時代の蜀の位置を示して見ます。
秦の始皇帝の小説などを読むと謀反した貴族を蜀に流す刑罰を行っていたりしますから、蜀というのは中原から見たら、田舎も田舎、中華にすら入らない(肌色領域)、辺境の地であったと予想されます。漢の時代を挟めばもう少し蜀の地位は上がってはいそうですが、それでも、経済拠点からは少し外れていそうに感じます。
これは、大人になってから知った知識ですが、三国志演義は千年後の明の時代のものとされています。その前の元に支配された時代に民衆が漢民族による中華統一を願った事と、漢や明が支配の道具として儒教を利用した事が、幅広く演義が流通した背景にあるそうです。
それを知ってしまって、蜀が天下を取るというのは、夢物語にしか感じなくなってしまい、劉備も孔明も欲深い俗物に感じてしまいました。無双内でも曹操が「口だけでは駄目だ」っぽい揶揄をしていますが、私にもそう見えてしまったのです。
まあ、別に中華統一しなくてもヨーロッパみたいに分裂しても戦争が減るならそれで良い気もしますが、秦や漢の統一によって文化が統一された事や儒教の広がりによって中華の民は統一を求める意識が強かったのかなと感じます。

拙い中華論はともかく、
周瑜という人は「三国志」の描写だけでも万能な人で、幼い私にはまさに憧れの英雄という感想を持ちました。女顔というのは演義や後世の脚色でしょうが、歴史書においても文句のつけようのない多才な人です。当時の歴史書が事実だけを書いているかは謎ですが、一応そこそこ信頼に足るとされています。
①
容姿が良い(肌が白いとか美周郎というのは演義や後世の脚色。実際は男性から見て格好良い恰幅だったのかも?無双のデザインではむしろなよなよしていて軍を率いる事は難しそうです;)
②
文武両道(後漢にて尚書令・太尉・洛陽県令など持つ一族の出で政治の知見もあったと考えられる)
③
カリスマ性があった(先輩の程普などの逸話や孫策孫権の評価や当時の民衆の逸話など)
④教養深く特に
音楽が得意
⑤
友情を大事にする(孫策の方が容姿端麗なんだそうな)
⑥三国志の花形・
赤壁の立役者と考えられている(演義では孔明。私が愛読した子供向けの演義にも周瑜の実績が後世になって孔明に取られてしまっているといった注釈が付いていました)
⑦若くして死んでしまう…(
悲運の英雄…)
等々、史書を読むと完璧過ぎる人だったようで私の憧れも膨らんだものでしたが、最近の三国無双では周瑜が
目立っていない!絶世の美女と称される
小喬も単なる馬鹿キャラ!あとから乙女ゲーっぽい流行りのイケメンがどんどん追加されてきて、美少女ももっと可愛く無難な性格のキャラが追加されていって、周瑜と二喬の影が非常に薄い…、ネットでは
単なるロリコンと書かれる始末…。若い子にもあまり人気がないそうで。「違うんだ、周瑜はもっとカッコいい!」と私は叫びたい…。
という事で久々の三国無双はなんだかなあ…という感じですが、それはそれという事で、演義ベースのコーエー観を楽しんでいます。
・近年の追加要素も概ね面白いです。
(1)
晋のストーリー
王元姫のデザインはアトリエっぽい美少女ですし、司馬懿・司馬師・司馬昭も格好良い。
王元姫が本当に才女だったのかは司馬炎が政治にあまり興味がなさそうな所から少し疑問を感じます。司馬昭に諸葛誕の裏切りへの注意喚起や政治についても口出ししていたそうですから、当時の女性としては、発言力もあったのだと思います。
司馬昭は必要以上に残虐ではなかったようなので、実際は野心的で覇気のあるイメージですが、コーエーのキャラクターでもそこまで矛盾は感じません。
鍾会のホストっぽい残念イケメン感もコミカルで面白いです。彼は明智光秀っぽい位置の人でもあるので、文武優れても自信家でかつ人柄悪く人付き合いが下手という描写はアリだと思います。
特に
賈充の腹黒さと友情を大事にする描写が面白かったです。彼は皇帝殺害など汚れ仕事も多いですが、司馬炎にまで忠実に仕えて、時代に誠実で合理的な人だったのかもと妄想してしまいました。

魏史と違い晋史は信憑性が疑われたりもする分どこまでがその時代を写実していてどこから脚色なのか素人に分かりづらいのでパロディに文句も言いづらいです;;
別にパロディが悪いというわけではないですしね。
しかし、一時的とはいえ中華統一を果たした晋がこれだけ憎まれ役となってしまうのは、匈奴に華北を取られた愚か者と漢民族には映ったからでしょうか?蜀漢が天下をとれば華北は取られなかったと、そういう希望から演義は愛されるのかもしれません。
魏ですら長安の北は取れていないので、三国時代から既に北は押され気味であり、曹魏はよく抑えていたという見方もあるかもしれません。
司馬炎が統一後の政治に興味を示さず女遊びに夢中になった事で、人々の目には司馬家はやりたい政治があったわけでもなく、ただ権力に溺れたかっただけだと映ったのでしょうか?
となると、司馬炎に政治の道を教えなかった司馬昭や王元姫や賈充の教育も悪かったと見るべきかもしれません。賈充は呉の征服には慎重派だったそうなので、蜀と魏の国力差はともかく、魏(晋)と呉はそれほどに均衡が取れていたのかもしれません。
晋の政治については具体的な資料が少ないそうですが、魏については曹操の政治面での改革が多く記録に残っているそうです。そういう意味では曹魏が天下統一を果たしたという見方も出来るのかな、と感じます。仲達も将軍職であり宰相としての実績も経歴もない事から司馬家には、内政に対する理想のビジョンが薄かったのかもしれません。反面、魏の実績をみますと曹操にはやりたい政治があったようにも感じます。
『何がしたかったのか』という内実はもはや想像の粋を出ない答えのないものになってしまいますねー...。
(2)
呂布のストーリー
ころころ主人を変えて読者を呆れさせてしまうキャラも、美女に騙されやすいのも、圧倒的な武勇を誇る英雄譚も魅力的な呂布ですが、一騎当千がテーマのゲームと良くあっていて面白いです。
(3)増えた
新キャラ
10年のうちに追加されたキャラクターで一番魅力的と思ったのは
関銀屏です。二喬と違い、万人受けする清純派のデザインに、性格も良さげで、攻撃力が高くゲーム性能も良い…。これは、使う気になります∑(゚Д゚)
史実に居ない空想の人物だけに自由に描けている点や所詮蜀が正義で呉は悪役なのだなあと感じさせて複雑な気分になります。むしろこの類の容姿で二喬をデザインして欲しい…。

人気投票では一位になったそうですが、
郭嘉のキャラは受け入れられませんでした。文武優れたが人徳はなかったそうですから自信家で嫌味っぽいのはいいんですが、別にイケメンでもないだろうし、あんなに不自然にねっとりした話し方でもないだろうなあ…と。あんな話し方だと屈強な前線の兵士達が軍略を聞くはずがない、とか思ってしまいます。
イケメンなら
荀彧の方が…と思ったら荀彧のデザインは無難な印象でした。ポリゴンの顔形は良いですが、特にイケメンとして誇張している印象はありませんでしたねー…。
(4)
定番キャラ
新キャラが今時の乙女ゲーギャルゲーっぽさを誇張しているのに対し、看板キャラの
趙雲・陸遜・夏侯惇は安定させて、しっかり人気を維持しているのは流石だなあと感じました。個人的にはここに周瑜も入れて欲しいところですが小喬のクセの強さや周瑜の女顔過ぎる点など反感を招く描写が多いのでまあ仕方ないですかね…。

昔から子供心に
趙雲が美化されているのは違和感がありましたが、趙雲の美化は近年は日本だけでなく各国でも共通しており、脚色されイケメンのイメージが定着してきているそうです。というのも、趙雲の超人過ぎない普通っぽい性格や特に目立ち過ぎない一般人っぽさが近年は中国・台湾など周辺各国で再評価されているそうで…近代化と共に民衆が憧れる英雄像もまた変化していく一つの象徴ともなっているそうです。
貧富の差が縮まり、平和が持続する国で中流階級としてほどほどに幸せになるなら、関羽や呂布ほどの武勇も必要なく、孔明ほどの天才的な閃きも必要ない、曹操ほどの先見の明も政治の腕も要らず、『
そこそこ良い上司の下でそこそこ頑張れるちょっと凄い人』が現代の英雄像なのかもしれません。
そういう傾向からは、天から二物も三物も受け取って、顔も頭も性格も良く、親友はイケメン嫁は絶世の美女である周瑜もまた今時の英雄像からは外れてしまっているのかもしれません。
・余談
蜀漢正統説には否定的です、と個人的なファン派閥の立場を冒頭で言いました。
だったら、
どこが統一すべきだったと思うのか?というのはなかなか難しい命題でもあります。
三国志は短い期間に興亡があり、どの勢力にもそれぞれ魅力があります。それこそが三国志が長く愛される理由なのかなと思いました。
後漢末期からおよそ100年間つづいた三国時代の後、晋の築いた平和は10年少しで崩れ去り、300年の泥沼を経て、隋の30年程を経て、唐の時代にてようやく長く疲弊した戦乱の世は落ち着きを取り戻せたと思われます。
しかしながら、唐もまた鮮卑の流れを汲む異民族との見方もあり、漢民族による統一ではない、と民からは考えられたのかもしれません。
といっても、漢民族による安定政権が維持された期間はその後2000年もの期間でごくわずかで民族を気にするよりも、平和かどうかを重視すれば良いかなとも感じます。ただ、文化が少し途切れてしまう事は残念かもしれません。
小市民の自分から見ると、
平和を築き、文化を発展させる王様が、より多くの人にとっては「良い王様」になりうるのかなあと。
曹丕が漢室から禅譲を受けて皇帝になった時、曹丕は明君ではあったと思います。事実、彼の短い治世は安定していたそうです。九品官人法は隋の時代まで残ったそうですから、当時としては画期的だったのかもしれません。採用時点で身分が決まるという貴族主義な法のため、後の結果をみると、良法だったのかは疑問が残ります。ただ残念な事に皇帝となった後、わずか7年で死んでしまいます。歴史にIFがあるならば、もし曹丕がもっと長生きして、きちんと後継を育てていれば、司馬家が叛く事もなく、早い段階で内乱を平定して魏の国力を弱めず、北の異民族に対抗できたかもしれません。
孫権はわずか19歳で軍閥の長となります。周瑜や程普らに補佐され、若い頃は徳も高く頭も良く尊敬に足る君主だったそうですが、晩年は後継者を選びきれず、優秀な家臣団である陸遜らとも対立してしまい、孫権死後の呉はそのまま内乱が収めきれず国力が衰退してしまったそうです。もし孫権が後継者を正しく選び、諫言に惑わされず優秀な部下の信頼を落とさなければ、呉はもう少し長生きして、後10年凌げば晋は北にも挟撃され、統一王朝の覇者は呉となったかもしれません。
孫呉に関すれば、運によって滅亡していくのではなく、明君が老衰と共に自滅していくように感じられるのがなんとも残念だなあと個人的には感じられます。二宮事件について孫権が放置したのは個人的には疑問が残ります。すでに呆けはじめていたとかでしょうか。その他晩年の行動はどうもおかしい。その頃から孫権は判断力を失っていたのかもしれません...。痴呆による耄碌は仕方ないですが、ここに専制君主制の短所が出てしまっていると感じます。
もしも、皇太子の孫登が亡くならなかったら天下は呉のものだったかもしれません。そうすると周瑜の娘が皇太后になるので、周瑜の血も呉に残ったのですが...。陸遜も国を補佐してうまく纏まったように感じます。
劉備については、子供が暗愚だったのを知り、きちんとした後継者を育てられなかった時点で先がなかったとみなすべきかもしれません。劉備は、曹操の下にも孫権の下にも長く留まらず居場所を得られなかったため長い流浪生活が続いた事こそが蜀の敗因と言えるのかもしれません。いずれにせよ、様々な面から考えて、蜀が中華全土を統一するためにはひとつのIFでは事足りず、もっと若い頃に安定した地盤を得ていなければ苦しかったように感じられます。
司馬家に関すれば、もし禅譲を迫らず魏の臣下という立場を守っていたら、と思う事もありますが、すでに曹家の方から司馬家の権勢を排除したいと兵をあげられていたため、倒すか倒されるかの関係だったのかもしれません。司馬炎は女色に溺れ内政にあまり興味を示さなかったそうですから、ならば司馬昭が司馬攸を後継者にしていればまた変わっていたのかなあと妄想したりもします。
司馬炎が親族に兵と土地を与えたことは、魏の滅亡の原因を司馬家は皇族が弱かった事にある、と考えていたともいわれます。それにより、晋では逆に各地の皇族がそれぞれ力を持ちすぎたために各地で泥沼の内乱となってしまったのかもしれません。
これは、殷周王朝後に長く春秋戦国時代が続いた事で秦漢が郡県制を布いた方針とはまた逆流する流れにも感じられます。
いずれにしろ、統一後に中華を纏めきれなかった事が、長い内乱を招き、ひいては異民族に支配される素地をつくってしまったと言えるかもしれません。
もしも、曹丕が禅譲を迫らなかったら、その後も代わる代わる禅譲が繰り返される事はなかったのでは、と感じる事もありますが、新の前例がある以上、大きな大陸を長く治めるというのはなかなか難しい事なのだなあとも感じられます。そういう考えがある以上、上下関係を説く儒教が平和に一役買うとこれほどにまで求められたのかもしれません。
もしも、蜀が中華統一を果たせば、劉姓は続いたかもしれませんし、それで血の流れる量が減ったのかもしれません。少なくとも明の時代にはそういった考えが根底にあったからこそ蜀漢正統説が支持されたと思われます。(その後に異民族が劉姓を名乗る事が続いたため、実質的にはあまり意味がなかったと思われます。むしろ、漢室を残した方が良かったのかもしれません。)
こうしてあれこれ試行錯誤していくと、漢帝国の成功の一つは劉邦が建国の功臣を統一後に悉く処刑した事にも利があったのかもしれませんし、その後子供世代であった文景の治が安定したものであった事も良かったのかもしれません。そして何より長い戦国の解答でもあった商鞅や韓非子・李斯・蕭何らの作り上げた法治主義の完成度が高かったのかもしれません。
なぜ三国志後の世界が安定しなかったのか、正しい答えは解りませんが、優秀な次世代の後継者を育てる事にどの国も失敗してしまった事が一つの原因なのかなとも思いました。
歴史を振り返ると、平和の維持というのは非常に難しい事であり、むしろ争う事こそが自然の摂理に適った人類という生物の業であるかのようにも感じられます。
しかしながら、兵器があまりに強大になりすぎた現代ではそれは自然の破壊を意味するとも思われます。
どうやったら平和が維持出来るのかに正解はなく、あまりに難しくなりすぎたために、現代の我々は、科学が発展しすぎておらず、個人の武と知が覇権を左右する古代の世界の英雄に憧れを抱くのかもしれません。
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